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同企画は“「好き」なことを「仕事」にするための芸術系プログラム”の第2弾。当日は野村のほか甲斐田裕子、荻野晴朗、小林未沙(早稲田塾出身)ら現役声優も登場。声優界の大御所・野村はもちろんのこと、現在も第一線で活躍する3人が、“声優”という職業について語るほか、野村が相談役を務める賢プロダクションと早稲田塾による“重大発表”も…。
Quote reblogged from MCSG SYM with 614 notes
悲劇的な結末を「バッド・エンド」と書く人がいるが英語ではBad endingとは「下手な結末」のこと。悲劇的な結末はTragic またはUnhappy ending 。Happyの反対語はBadではない。Good endingは「巧い結末」なのでHappyとは限らない
Quote reblogged from SYM MCSG with 16 notes
私も細田さんの作品(デジモン劇場版一作目)をビデオから絵コンテに写生しました。
意外と根気のいる作業です。しかし、やって良かったと思います。
何回も観ているはずなのに、新しい発見が沢山ありました。
この写生のコツは一度書き終えた絵コンテは描き直さないことです。
写しをしていくと、どんどん絵が上手くなって最初の方の絵が気に入らなくなって書き直したくなるのです。
そこをグッとこらえて、とにかく最後までやり切る癖をつけてください。
ただ写すだけなので誰でも出来るはずなのに、なかなか難しい作業です。
一本丸写しが出来ない人はまず一生絵コンテは描けないでしょう。ぜひチャレンジしてみてください。
Quote reblogged from もともこも笑いっぱなし with 56 notes
「運・鈍・根」のうちで私が重視するのは「鈍」、つまり愚直です。愚直とは、愚かなほどに正直なことです。より正確に言えば、周囲から愚かに見られるほど、自分の信念に忠実に行動することを指します。優れた能力を持つ人が、周囲の目には愚かに映るというのは、彼、あるいは彼女が、他人の評価や社会の流行を安易に受け入れることをせず、あくまで自らの信念に則って行動するからです。外部からの信号に同調するのではなく、自らの内部にあるジャイロスコープに従って行動する人間が、私のイメージする愚直な人です。
彼、あるいは彼女は、付和雷同しません。しかし同時に、頑なでもありません。彼、あるいは彼女の信念は、確実な根拠に基づいて考え抜かれたものであり、それゆえに単なる流行に付和雷同することはありません。しかし、自分よりも優れた見解に出会ったときは、それまでの見解を潔く変更する決断力を持っています。実は、こうした愚直な人間像こそ、私が長年理想としてきた研究者の在り方なのです。
研究者は登山家に似ています。誰も解いたことのない課題に挑戦し解答を見出すのが研究者の使命ですが、登山家も、誰も登ったことのない山に初登頂し、誰も歩いたことのないルートを初制覇することに、生き甲斐を感じるからです。そして、単に生き甲斐を感じるだけでなく、他の人々に先んじて業績をあげることによって社会から評価を受けるという点でも、研究者と登山家は似ています。
愚直な研究者を登山家に例えれば、彼が目指すのは、彼が登るに値すると確信する山です。周囲に他の登山家の姿はほとんど見かけません。余りに険しい山で、頂上がどこにあるかすら定かではなく、これまでに多くの登山家が挑戦してことごとく退けられ、膨大な時間とエネルギーをかけても登山に失敗する可能性が高いと、他の登山家たちは知っているからです。愚直な登山家も、もちろんそのことは知っています。しかし、この山は登る価値があると確信するがゆえに、ひたすら頂上を目指します。既存の常識に捉われず、思い込みを排して、ありとあらゆるルートを試み、時には迂回することも躊躇せず、一歩一歩着実に頂上を目指します。その試みが成功するとは限りません。しかし、成功したとき、それは世界的業績と称えられることになるのです。
愚直さは、研究者としてもっとも重要な要素であると私は確信していますが、研究者が愚直であり続けることは、次第に難しくなりつつあります。それは、短期間のうちに、目に見える形での成果を求める傾向が、強まりつつあるからです。企業など利潤を上げることを目的とする組織では、成功の見通しの乏しい研究を長期にわたって続けることは困難です。大学は利潤を目的とした組織ではありませんが、研究費の多くが競争的資金によって賄われており、競争的資金を継続的に獲得し続けるためには、研究者は絶えず研究成果を挙げ続けなければなりません。こうした環境では、成功の確率の低い大きな問題よりも、成功の確率の高い小さな問題を選ぶ傾向が支配的になってしまうのです。
再び登山に例えれば、研究者が成功の確率の高い小さな問題を追い続けるということは、登山家が登りやすい山を選んで登山するようなものです。多くの業績を積み重ねても、人類の知の境界を大きく拡張するような成果は生まれないでしょう。既成の知識体系をブレークスルーするような新たな発見は、愚直な研究から生まれる可能性が高いのです。愚直な研究者であり続けることは、困難なことです。そのことを前提としたうえで、それでも私は皆さんに、心のどこかに、愚直な研究者を理想とする意識を持ちつづけて頂きたいと思っています。
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批判するつもりではありませんが、私は日本のファンタジー作家と呼ばれている人たちと、何人か知り合いました。その印象で言うと、ファンタジーというにはちょっと軽率で、ただの作り物、愉快な遊びにすぎないような事柄をファンタジーと言ってしまっている。 『三つの鏡』
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都内某大学での中世国文学関連の講座に昨夜もいってきた。
わたくしは今でこそ首都圏に住んでいるが、純然たる地方出身者である。都内の大学も人並みに受験したけれど、大学4年間を福岡市で過ごした。したがって、都内の有名大学にはちょっとした憧れがある。女子大生ちうやつだ。キャンパスライフちうやつだ。今回の受講はそれを叶えてくれたのもウレシイ。ルンルン(死語)だった。
ところがどっこい、講義内容は骨太。学生は真面目だし、熱心で有名なジジババ世代(含むじぶん)も多数いる。実演&体験型の講義に受講者はみな積極的参加し、チョー真剣にかぶりついているではないか。
…
Quote reblogged from MCSG SYM with 181 notes
「人間の耳って特性があって、例えばピークが1k(Hz)とか2kくらいなんですけど、ここに近い帯域に色々音が並んでるより、高いものはちゃんと高いところに、低い音はちゃんと低いところにあった方が音を認識できるんですよね。イギリスのドラムンベースとかデジロックがかかってるクラブに行くと、すごい爆音で音楽がかかってるんですけど、普通に会話できるんですよ。なんでかっていうと、話し声あたりの帯域をピンポイントで切っていくんですね。アレンジもそうで、歌のレンジが中央にあったら、楽器の配列って決まってくるじゃないですか。歌のところに何かを重ねるって愚かなことで、オクターブ上げるなり下げるなりすればいいんですよ」
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長時間のデスクワークあごを突き出していない? デスクワークが一日の大半を占める人は、集中しているときの自分の座り姿勢をチェックしてみよう。猫背であごを前に突き出し、口まわりや肩にも力が入っている人は明らかに後頭部に負担が集中して、首こりを起こしているはず。あごを前に突き出す習慣があると、首の前側の皮膚が伸びてしまい、あごを引くと「二重あご」になるのも特徴。 (via 頭痛や耳鳴りの原因「首こり」を解消 ゆがみリセット学(7) :日本経済新聞)
Quote reblogged from extra with 817 notes
なにより大事なことは、娯楽というものは飽きられるものだということ、ここが必需品と根本的に違うところです。必需品は飽きられない。そして基本的には、安いほうが売れる。ある品物が売り出されて、それに遅れて同じような品物が売り出された場合、必需品なら二番手でも安いほうが売れます。しかし娯楽は二番煎じはダメです。たとえ安くても売れない
Quote reblogged from SYM MCSG with 108 notes
打ち合わせの最中にも給与が発生している編集者と
一銭も出ない打ち合わせを何度も何度も真剣にする。
安定収入を得ている編集者に「二人三脚で一緒に作りましょう」
と口説かれ、失敗すると、作家の暮らしだけ崩壊する上級賭博。
生活の保障はされないが、原稿を保証をする必要がある。
社会人クラスの責任を問われながら、
社会人以下の生活を強いられる。
たった一晩の食事が数万円という接待を受けつつ、
ひとたび接待が終われば時給300円以下の日常を送る。
富裕層と貧困層の生活をいっぺんに味わえるし、
借金に震える生活と、従業員を雇用して社長気分も同時進行。
これ程スリリングな体験が出来る職業を私は他に知らない。
絵と漫画と仕事とかの雑記 | 電話済んだ(単行本のこと。) (via hyasuura) (via bardiche-side-b) (via kondot) (via pedalfar)
2009-08-01
(via gkojay)
Quote reblogged from SYM MCSG with 142 notes
「ぼくはくそったれな諸君が大好きだ。最近は、きみらの書くものしか読まない。きみらだけだよ、いま現実にどんなものすごい変化が起こっているかを語ってくれるのは。きみらのようなキじるしでなくては、人生は宇宙の旅、それも短い旅じゃなく、何十億年もつづく旅だ、なんてことはわからない。きみらのように度胸のいい連中でなければ、未来をほんとうに気にかけたり、機械が人間をどう変えるか、戦争が人間をどう変えるか、大都市が人間をどう変えるか、でっかく単純な思想が人間をどう変えるか、とてつもない誤解や失敗や事故や災害が人間をどう変えるか、なんてことに注目したりはしない。きみらのようにおっちょこちょいな連中でなければ、無限の時間と距離、決して死に絶えることのない神秘、いまわれわれはこのさき何十億年かの旅が天国行きになるか地獄行きになるのか分かれ道にいるという事実――こういうことに心をすりへらしたりはしない」
Link reblogged from もともこも笑いっぱなし with 250 notes
これだけの資料を家にいて検索できるとか、いい時代になったなあ。|
Quote reblogged from futodoki tumblr with 647 notes
まず最初に言っておかなくてはいけないのは、「表現の自由は媒体を問わず尊重されなくてはならない」という大原則です。小説ならOK、漫画だとダメ、映画ならOK、ゲームだとダメということはそもそも間違いです。そこから考えましょう。
それから、『有害コミック』については興味もないし、むしろなくなってほしいとお考えの方にも、もう少し考えて頂きたいと思います。これは最近話題の、同性間の婚姻を巡るスピーチと同じロジックで考えることが可能です。「あなたにとって必要のない権利でも、切実にそれを求める人がいる」。
次の視点。一例として石原都知事は「ナボコフならいい。表現も綺麗なところがあるし」という発言をしました。ずいぶん前の筒井康隆の断筆宣言のときに浅田彰は「筒井のような二流の作家がタブーなき言語の聖域などというな」と発言。逆に小林よしのりは「筒井さんは何を書いてもいい」と擁護。
私はこの三者の発言のどれにも賛同しません。嘆かわしい思考水準だと思います。芸術的力量という曖昧な物差しをそれぞれに当てて、「この表現は自由」「これはなし」と決めることはできないのです。一流の作家ならOKという前提そのものが間違っています。
演劇の分野でもいろいろなことが起こりました。シュニツラーの『輪舞』、ヴェデキント『春のめざめ』など、二十年近くまともに上演されなかった戯曲があります。後年正当に評価された幾つかの名作の影には、知られずに消えていった作品が山のようにあるということです。もちろん作家も。
日本で起こった悲劇は、徳川幕府が女性の演じる歌舞伎を全て禁止してしまったことでしょう。国が乱れる、と幕府が感じるほどに大人気だった芸能がどんなものだったのか、我々はもう知ることができません。損害を被ったのは女性の歌舞伎役者たちだけではなく、数百年後の我々全員でもあるのです。
さて。ドストエフスキーの『悪霊』は50年ものあいだ、完全版の出版が叶いませんでした。少女を陵辱する場面があったからです。コミック規制を主張する人は、『悪霊』を十九世紀版に戻せ、ともいうべきです。やっていることは当時のロシアの役人と同じだということを、少なくとも自覚すべきです。
一流の小説家ならいいが無名の漫画家はだめだ、というロジックが通用しないのは、述べたとおり。媒体の性質や作者のレベルをもって、表現の自由に差をつけることは誰にもできないという原則を何度でも確認する必要がある。
唐沢なをき『電脳なをさん』の722号を見てみよう。ヒトラー似のへんなおじさんが「きんもーっ」の大号令のもと、都条例改正による表現規制を推進していく。ここで「きんもーっ」が出てくるのは正しい。青少年を守ろうといいながら、実は自分が気持ち悪がってるだけだろ、という批判だ。
「自分が気持ち悪いだけじゃないの?」という指摘をしたのは、私の知る限り唐沢なをきただ一人だ。そしてこれは実のところ、正鵠を得た重要な指摘なのではないだろうか。「気持ち悪い」→「一掃したい」→「(後付け)青少年にもきっと有害だよね!」というロジックで規制論が起こるのではないか?
だから、「実際の性犯罪を誘発しているか」の議論が無視されてしまう。「気持ち悪い」「青少年に悪影響を与えないはずがない」のほうが彼らにとって百万倍も大事だから。しかし、そこで立ち止まらなくてはならないのだ。本当に「有害」なのか。有害と無害の境界線を引くことはできるのか。
表現そのものに「有害性」はない、という内田樹氏の明確な指摘も参照されたい。 http://t.co/KkIrEW0W
チョムスキーのいうとおり、ヴォルテールは「自分にはヘドがでそうな思想であってもその表現の自由は徹底的に擁護する」と述べた。200年も前のことだ。不快で、広い共感を得られにくい表現こそを守っていくことが必要なのだ。青少年保護を楯に自分の清潔感を守ることをしてはいけない。
児童ポルノの単純所持禁止、についても疑問提示。例えば、全裸の少年少女たちが登場する寺山修司の短編映画をビデオで所持していたら逮捕されたりするんでしょうか? されないとしたら根拠はなんでしょう? 芸術作品とポルノ作品とは誰が区別してくれるのか。
Quote reblogged from extra with 542 notes
小説家になりたいという人が、ほぼ必ずぶつかる壁の一つに『頭の中に大傑作として存在しているストーリーを実際に書くと、どういうわけかつまらなくなる問題』というのがある。これは、『頭の中に大傑作として存在しているストーリーを友達に話すと反応が妙に薄く、やる気を失う問題』と根は同じである。
小説家志望にとってこの問題がやっかいなのは、こじらせると、
- 文字にするとつまらなくなるので書かなくなる(現実逃避)
- プロの小説家を尊敬できない(自分の頭の中のイメージ>プロの小説 だから)
- 尊敬できないプロが世間では自分より認められるので、つい俺の方が凄いと言ってしまうが、書いていないので認められない(孤立化)
- 自分の世界に籠もる(更なる現実逃避)
- 尊敬できない作家がもてはやされている世の中は間違っていると思うので、クーデターや世界の滅亡を願う(チャラになれば、今度は自分が注目されるのではという願望)
- そんなことを願っているうちに、どうにもならない年齢になる
といった感じで、いわゆる“負のスパイラル”に陥りやすいことだ。私もこのスパイラルにはまったことのある一人だ。
このスパイラルから脱出する方法はいくつかあると思うが、手っ取り早いのは、頭の中の大傑作を文字にするとつまらなくなるのはなぜなのかを知ることだと思う。
どうすればわかりやすくなるかいろいろと考えてみたが、麻雀でたとえてみたい。
まず、世間一般で言われる『傑作』を役満の手だとする。役満の例
緑一色(リューイーソー)
緑のみで図柄が刻まれている牌だけで構成される素材:フリー素材の来夢来人
麻雀というのは基本的に、四人に13枚ずつ牌が配られ、配られた以外の牌を一人ずつ引いていって、役を作るというゲームである。牌は数種類あり、それぞれ数字や絵が書かれていて、種類ごとに同じ数字を揃えたり、同じ種類で数字を順番に並べると役がつく。
配られた時点で役になっているという場合もあるが、普通は何度も牌を引いたり、相手から牌を取ったりして役を作っていく。つまり、役満の手というのは最初から用意されているものではなく、偶然とか駆け引きとかいろいろなものが結びついて形になったものである。
小説も似たようなもので、作家の頭の中に小説の材料がごちゃごちゃと揃った時点で傑作が約束されるということはまずあり得ない。作家の経験や思考、能力、時代の流れ、運、編集者、出版社、宣伝など、いろいろなものが絡まり合い、傑作(と呼ばれる物)が出来上がる。
では、小説家志望の頭の中にある大傑作イメージは麻雀で言うとなんなのかというと、実戦ではなく一人で牌を揃えて役満の手を並べた瞬間を切り取ったものなんだと思う。たとえば、リューイーソーなら、既にリーチになっていて、表になって見えている發を加えた前後のイメージという感じだ。堂々たるクライマックスシーンを思い描いて恍惚となってしまう。どういう経緯でそうなったかというものは点のようなものだけ。
友達に伝える場合は、
「見て見て、俺、リューイーソー揃えちゃった、すごくね?」
といった感じだろうか。
しかし、リューイーソーを含めた役満の手が評価されるのは、実戦で揃えたということに対してであって、リューイーソーの牌の並び自体がすごいわけではない。自由に牌を取ってリューイーソーの形に並べて、それを大勢に見てもらっても誰もなんとも思わないだろう。友達に、自分が考えた傑作と信じて疑わない大まかなストーリーとクライマックスシーンを興奮気味に話しても、大抵、薄い反応しか返ってこないのはそのためだ。
ただ、イメージを口にしている小説家志望本人が、別の小説家志望から同じようにイメージだけを熱く語られたら、そんなこと言われても、通して読んでみないとわからないよねと思うはずである。なぜ、他人から聞くとおかしさがわかるのに、自分で言う場合はわからないのか。おそらく、作者としての補正が効いてしまうからだろう。頭の中の大傑作を文字にするとつまらなくなるのも、麻雀で考えればわかりやすい。いくら、役満の手をイメージして進めていっても、そもそも配牌が狙っている手にまったく合わなかったり(キャラクター設定の失敗)、捨てる牌を間違えれば(構成の失敗)役満の手の出来損ないのようなノーテンの手が出来るだけだろう。配牌を無視して特定の役のみ狙えば上がれる確率は低くなる。
また、イメージに自信がある小説家志望の人は、しばしば、プロの作家の作品に対して「俺だったらもっとうまく書ける」と口にする。大抵の場合、麻雀で言うとツモと打牌をだいぶ繰り返して、ある程度、牌が整った状況から引き継げば、である。その形まで持っていくという作業が抜けている。小説で言うと、中盤までのストーリーと、キャラクターの設定を引き継げばもっと面白く書けると言っているようなもので、そこを軽く考えて自分で一から書くと、当然、苦労することになる。リューイーソーに比べれば、簡単に作れるイーペーコーや平和はちょっとかっこ悪い。まだ小説を書いたことはないという小説家志望からすれば、そういった地味な役を感じさせる小説を書いている作家は尊敬の対象にはならないかもしれない。しかし、実戦では、役満を狙ってテンパイにいくつも足りないようなノーテンよりは、イーペーコーで上がった方がはるかに評価される。どんなに配牌や流れが悪くても、駆け引きと知恵でなんとかテンパイまで持っていったり、役を作って上がる、その姿もまたプロだからだ。
役満の手を作れないなら麻雀をやらないというのでは未来がない。まずは実戦を行う、テンパイまでは持っていく、安い手でもいいから上がる、そういったことを繰り返しているうちに、ある日ふと、役満を狙える配牌が来るのだと思う。というわけで、役満の手を作れないなら書かないと決めて、そのうちなにも書けなくなってしまったという人に対しては、まずは実戦で打ち切ってみるってだけでいいじゃんと言いたい。
デビュー作である『わたしの彼はハムスター!?』を書いたとき、誉めてくれる人はごくわずか、それも私のことを知っているから誉めてくれているんだろうなという感じだった。あとは箸にも棒にもかからない、ボロクソ、糞味噌、失笑、苦笑、そんな言葉で表せる感想が多かった。
近くにいた人からすれば、「俺は役満で上がると常々豪語していた人間が、いざ書いたらこれ?」的なものもあっただろう。
でも、本は出版された。書ききって自信になった。国会図書館に納入された。中学生の女の子からファンレターをもらった。客観的に見れば、テンパイになっているかどうかも怪しいという出来なのかもしれないが、実戦に打って出て、一応、歴史に名を刻んだ。
役満で上がることにこだわっていたら、役満でのみ上がる自分が本当の自分だと思い続けていたら、なにもないまま今日を迎えていただろう。
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